■1.まえがき
今回の記事は星狩りの国の105村と107村を見物した感想です。(ネタバレ注意)
参加者の全体の傾向から攻略方法を考えるための話であり、参加者のプレイヤーおよびに星狩りの国を批難する意図はない事を予めご了承ください。(酷評と言えば酷評となりますので)
■2.率直な感想
喋れない人が増えたなと。そして何より驚いたのは、喋れる側の人間。「判断材料が多く、村か狼は判別しやすい人から能力処理をしていた」というところ。
いわゆる、寡黙吊りすら行われてなかった。というのが現状の村の傾向だと思います。
学校の5段階評価で例えてしまうと、出席日数が足りてないので1を付けざるを得ないような、評価する以前に何もかも足りてない。という評価になってしまいます。
■3.要因
何故このような環境なのか?の要因を考えてみましたが、これ自体もあくまで持論ですが以下の要因で考えてます。
1.アプリや短期のプレイヤーの流入
お手軽に参加できる人狼アプリのプレイヤーからの流入によるもの。
2.少喉の環境に慣れてる
長期人狼の負担が大きく、片手間で遊べる少喉で遊ぶ環境に慣れ、発言の省エネ化が進んだ。
全体的に人狼ゲームがパーティゲーム化。カジュアル化に進みつつあると考えています。つまり全体的に喋らない傾向になっているので、そもそも寡黙という認識が自覚も他覚もないのではないだろうか?
■4.対策
ポジティブに捉えれば、人の動きがあるという事です。こういう時は過去に振り返って考えるべきで、人狼の過去というのは、推理も何もかもが手探りの時代のことです。
人が動き、競技にありがちな経験値や技術などがリセットされた状態と考えれば良いのです。
また、相手に期待し過ぎてはメンタル面も良くないので、カジュアルな人に対して気にしない事も大事だ。気にしたところで、相手をコントロールする事はできないからだ。
■5.印象ゲーム
人狼ゲームは「印象ゲーム」だと揶揄されるが、その傾向はより加速したと思われる。実際多くを喋る人間というのは、粗を探せば見つかりやすい。
そして完全にステルス気味の狼が生存しかけるような村が連続で発生していることから、この仮説はより真実に近いだろう。
昔を思い出せば、村人の方が情報がなく、狼の方がまともは発言が多いのにも関わらず、粗探しゲームの結果。少し推理できる人から見れば、村人だと判断するのが容易な人を平気で吊っていた。その時代に逆行していると思われる。
もちろん殆どの人は推理をしているつもりなんだろうが、多くを喋る人間というのは判断する材料が多いという事になるが、その判断を諦めて能力処理し、情報量のない人を判断するとなったら、勘という他なく、「勘に頼った場合に起こる現象としては、より印象を掴んだ人が生き残るゲームになるという話」
■6.ステルス狼
粗探しによる失点を防ぎ、好感度を稼ぐことが大事ならば、より狼の戦略は単純化されるだろう。
特に余計な一言は相手の好感度を下げやすく、八方美人のような立ち回り方が(もちろん八方美人は皮肉にも使われるが)今の環境では勝ちやすいだろう。
必要な盤面で適切なアドバイスを送れる立ち回りのために、多数に好まれる戦術を理解しておく必要はあるが、喋らない事が今の狼に必要な事と言えるだろう。
■7.実際の勝率は
狼がとても勝ちやすい環境に見えるが、実際には星狩りの国のではより村人の勝率の方が高い傾向になっている。
村人のミス以上に狼によるミスや自滅が多いようだ。
喋らなくても勝てるとは書いたが、好感度ゲームである以上、第一印象など狼に必要な事を掴む事が大切だと思われる。
■8.単純化による弊害
時代が巻き戻ってると言ったが、ステルス狼で簡単に勝てるゲームになれば、再びステルス狼への警戒へと過去の人狼ゲームがそうであったように、ステルス狼への警戒がされるようになるだろう。
戦術というのは、トレンドがあるように単純化すれば、対策も容易になるため、ステルス狼で勝ち続けられる訳でも、強くなれる訳でもない。という事は念頭に置いとく必要があるようだ。
■9.初心に帰って手順と整理を
ベテランのプレイヤーも人狼の時代が10年前以上の物になってると考えてプレイすべきだ。短期やアプリやどこの文化かわからなくても、よりカジュアル化が進む流れは簡単に止められないので、それでもプレイするなら、相手に期待せずに寡黙吊りを徹底するしかない。
寡黙が多過ぎて、縄が足りないという意見も理解はするが、それで寡黙ではない場所に縄を使ってたら足りなくなるのも仕方ないと言わざるを得ない。
情報を整理して考える事が、推理の第一歩なのだから。第一歩すら踏めてないのであれば、推理力の向上も上手く行くようになる訳もない。
勘で吊り縄を運用し、なんとなく気に入る人が勝つだけのゲームでしかない。それを防ぐなら手順で整理吊りをして行くしかない。
推理が当たる当たらない以前に推理ゲームになっていない。判断を諦めて早々に能力処理し、襲撃や判定や判断の後回しで喋れる内容を待っているだけでは推理にならない。
■10.期待値から考える寡黙吊りの是非
一見すれば、寡黙吊りは村人の方が多く、村人不利になると言えるだろう。しかし実際には狼で喋れてないケースも多く、「実際には確率通りに収束する」と考えてる。
確率とは何か?というとG編成16人村なら15人中3人が狼で1人が狂人のように、「10人の灰が居て8人が村人で2人が狼ならば、寡黙吊りは2/10の確率で狼」になるだろう。
実際に参照点を50%で考えた場合、村人が吊られてしまう事が多いので、勿体なく感じてしまうが、実際には狼が吊れるケースも存在するし「寡黙は常に判断が難しい」 ので「寡黙吊り自体は村視点では得も損も発生していない(重要)」と考える。
寡黙のプレイをしてしまった本人にとっての自陣営の期待値を下げてる。また狼視点で確定している村人を吊る事や霊判定で色が確定した時に、勝てる確率が下がったと言えるだろうが、あくまで判断の難しい灰を吊る事自体に、損や得は発生してないと考えられる。
(ひとことでまとめれば、村人ばっかり吊れるが、時々狼も吊れるので元が取れてる)
ランダム村と同じ考え方で、ランダムに吊っても狼が吊れる時は吊れるという事。
■11.実力の反映
しかし他の灰に対しては、推理の材料が多ければ、「実力の反映の余地」がある。正しく判断出来れば村勝利に近付くし、間違えさせれば狼勝利に近付く。
村人で実力が一定以上あるならば、議論して推理する事自体が得になり、村側の勝利に近付くため、期待値の稼ぎようのない寡黙を放置する理由はないだろう。
得するか、全く得も損もないか。の二択なのだから。
仮に実力が一定以上なかったとしても(推理すれば狼有利になっちゃった)人の楽しみ方は自由なので、それについて議論するつもりはないが、「実力の反映を考えないのであれば、ランダム村と一緒であり」
ランダム村のように吊り先をランダムで決めて、RP楽しかったという楽しみ方をしてるという事である。※ランダム村の楽しみ方を否定している訳ではなく、ガチ村がランダム村と変わらないのは、楽しみ方として違うのでは?という意味である。
■12.間違えたとして
以前の記事でも何度かあげてるが、間違いや失敗というのは
何もしなかったよりマシである。反省や改善ができるからである。
推理の間違いが敗因として挙げられる事が多いが、正しい意見を主張していて、聞く耳を持ってくれなかったのであればともかく、殆どは何もしてない事が原因である事が多い。
仮に相手が間違ってると思うのであれば、自ら意見を出して正すべきで、それをしなかったのであれば、間違いを敗因として述べるのは、筋違いな反省だと思われる。
自分が判断役として生き残れるようになる努力が先である。そこで初めて推理を正しくするには?上達できる可能性が発生するためである。
■13.さいごに
見物した感想に近いのですが、初心に帰るには丁度良かったと思います。 今の人狼ゲームを体感した上で、カジュアル化がより進んで行くのだろうと思います。遊ぶのであれば、あまり期待し過ぎず、相手はみんな初心者のつもりで受け入れて遊ぶべきでしょう。
これも個人の感想になりますが、ランダム村に近いカジュアル勢とわざわざこのブログを読みに来る層とは、村の需要が異なると思います。匿名性のあるゲームの楽しみ方は失われますが、いずれ村の身内化も避けれない事だろうなとも感じてます。
そうした時代の流れも受け入れつつ、このゲームの向き合い方を考えて行ければと思います。
最終更新日:23/05/25